神  心


昭和五十四年二月二十六日  朝の御理解

御神訓  一、天が下に他人ということはなきものぞ。

  世界中に住んでおる人間が皆、家族、親族と言うわけです。皆、親戚だとこう言う。ね、親類なんです。だから信心させて頂く者は、どうあらねばならないかと言う事を、これは教えておられると思うのですよね。だから、白もなからなければ黒もない。みんな幸せになるように祈りを持たなければならない。

  先日ある方に新聞を見ながら話した事でしたけれども、毎日毎日、私は三面記事を一番初めに見るんですね。それであなた方は三面記事を見るときに、どげな風な気持ちで見るかと聞きましたら、今日はどげなこつのあっとるじゃろうかと思うて、まあ言うなら楽しみをもって見る、という意味のことを言うんです。皆さんどうでしょう  ね。
  もう出来るだけ針小棒大に、勿論新聞社自体も確かに針小棒大ですねえ。またそれを読む者がそれを喜ぶ、といったようなところがあるのじゃないでしょうかね、はぁ、もう人事とは思われない。いろんなそれこそ血生臭い事件ね、これが本当に親子だろうかとね。これが日本人同士だろうかと思うようなことが三面記事には、いっぱい掲載されますね。
  それで今日はどげな面白かつがあるじゃろかと言うような気持ちで三面記事を見るかね、今日も、もう出来るだけそういうような忌まわしい記事やらが、出来るだけ少なかならよいが、というような、もし自分の一家親類なら親類の上にです、どうぞ今日も平穏を無事をと言うて祈らせてもらうね、そんならやはり日本人同士のことですね、また世界中の人間も皆、親族  家族と教えてあるのですから、世界中にそういうような事が本当に出来るだけ三面記事を賑わせるような事がないようにという祈りね。
  だからどの位自分たちが身近なものとしての頂き方が、例えば教祖様はこう教えておられるけれども、その教えが段々血になり肉になっていきよるか、という事を思うてみなければいけない。今日は家の親戚に「ねぇごつか、ありゃよかが」と思う者はおらんでしょうもん、勿論、なら自分の家庭の中、親子の中、兄弟の中という事はいよいよそれを思うのです。

  昨日遅うに、今、孫たちが子供部屋が出来ましたから、あちらに子供用の寝台が二つ置いてありますから、聡子と恵城があちらで休んでおる。で昨日は恵城が夜中にやってきてから「今日は泊まりに来た」と言うのです。それで「どうしてか」と聞いたら、お姉ちゃんが椛目に行って泊まっておるから、一人で僕が淋しかわけですよ、そしてから私に言う事がです「今日はお父さんがね、もういっぱい血を吐いたよ」とこう言うわけですね。恐らく何か食べ過ぎか何かで吐いたんじゃないでしょうか、それを恵城には血に見えたのか知れません。例えばそれが血であってもです、私の心の中に一番初めに動いたのは、お取り払いを頂いてありがたい。これが一番でした、私のそれを聞いた時の感じは。また「どげなふうか」と言うて聞きに行くという事も思いませんし、ま  そのままでございましたけれどもですね、そこんにきです。例えば三面記事を見るときには今日もできるだけね、まあ悲惨な事件などがなからなければよいがと言うような、ま  これを言うならば神心と言うものであろうかというふうにおもうけれども、もう一つ向こうにはですね、もういっちょ神心があるということですね。
  世の中にあ々いう悲惨な事が起こってくる、そういう時になら、私の心には今日も出来るだけそういう事が少ないようにと、ま、世の中のそれこそ四海波静かにというような祈りを持っておるけども、そういう事が起こったときにです、これも地球上に住む人間のめぐりのお取り払いとして天地の親神様の心になってすればです、悲しい事であると同時にめぐりのお取り払いを頂いて有難いというような事になりゃせんでしょぅかね、極めて行ったら。

  私は昨日勝彦が血を吐いたと言う事を恵城から聞かせて頂いて、それが本当か嘘かわからないけれどね、何を吐いたのか知らんけれども、私はお取り払いを頂いてありがたいという感じを一番初めに強く思いました。限りがございませんですね、信心の心がいよいよ大きくなり、豊になり深くなる。もう信心は確かに限りがありませんです。そこで私は思うんですけれどもね、信心とは結局信ずる力、神様を信ずる力というものを、なら合楽の皆さんの場合、信ずる力があるからこそ朝の御祈念に参って来よんなさる。
  けれども信ずる度合いという事になると、もう銘々であると私は思うのです。ね。ですからその信ずる度合いというものをいよいよ深いものに、広いものに、豊かなものにしていくと言うのですから、もう限りがないです、金光教の信心は。
  もうこの位、もう絶対信と、例えば自分で言うてもおるし思うてもおりますけれども、それは自分一家なら自分一家のこと。自分一人のことならば絶対信が出来たか知れませんけれども、これが段々広うなり深うなり大きくなっていくおかげを頂く為にはどうしてもね、その芯の、言うなら信ずる力というものがいよいよ豊かに大きくなっていかないかん。
  今日私、御神前にて一番初めに頂いたことが、「やせた  富士山」やせた富士山とか肥えた富士山とかはありませんでしょうけれども、私の御心眼に頂くのはこういう言うならばやせた富士山です。富士山という事は日本一という事でしょう。だから本当の日本一という富士山ならもちっと肥えとらなければいけない。それこそ白扇を逆さにしたような形にならければ本当の富士山とは言えない。あ々もっともっと信ずる心というものを強める、豊かにする、大きくしていくと言う信心にいよいよもって精進しなければならないなというふうに思うのです。

  昨日、研修会で皆さん熱心な発表があっとりました。もう本当に段々信心が進んでいっておるという事を感じ、特に文男さんが最後に発表しておりましたが、あの人の信心の枠が取れて行きよる、段々豊かになっていきよるというようなものを感じたんですけれどもね、一番初めに発表されたのが久留米の今村さんでした。その今村さんの発表を聞いて、「もう今日の研修はいらんばい、今の今村さんの言わっしゃったこと、もうあそこに合楽の信心は極まっているんだから、もういらないよ」と言うて研修を進めさせて頂いたことでした。と言うのはどういう事かというと、一番口に司会が今村さんおねがいしますと云うわけ、そしたらその言われることが、「私は最近ね、心の根肥やしと言う事を心の中にいつうも思うております。心が肥えるということ。それでこの頃はですね、言うならば悲しい事もある、腹の立つ事もあるけれども、そのすべてがあ々これが心を肥やしているんだなあと思うとお礼が言える」といっております。次にはね、我情を取るということに心を置いとります。つい最近も、今度息子さんがどっかへんぴなところに家を建てられる。
  だから両親をそちらへ呼びたいと言う。自分はもう長年住み慣れたところにおりたい。いえ私だんここでよか、けれどもそれは我情だと思う、といっておられます。
  不思議です、もうそれこそ神様まかせ、自分の思いというものを捨てると後は楽です、と言う意味の発表をしとられました。
  皆さんこれに徹する。それがね、徹っしておられるなあというものをその話を聞いて思ったんです。この人は口ばっかりと言うふうじゃなくてです、本当にこの人はそれに取り組んでるなあと私が感じたんです。
  皆さんどうでしょうか、天の心、地の心と言うけれどもですね、もうやはりこれに徹する事ですね。もう必ずこの生き方で行くならば、一人でに物が出来るようなものであろうというようなおかげが必ずつながってくると思うです。
  私は心をこの頃、心の根肥やしと言う事をいつも考えております。中には悲しい事もあれば、腹の立つ事もありますけれどもそのすべてを、今こそ根肥やしの肥料を頂いとる時と思うとお礼が言える。自分があ々したいこうしたいという思いは、どこまでも我情である。それが成就する時には我情じゃない、まあ情でしょう。けれども「そげな事は私はいや」というのはもう我情だと悟っとるわけです。息子達が来いというところに行こうと我情を捨てたら心が楽だとこう言う。
  私はね、言うならば天が下に他人と言うことはない。だから祈りの中にはねやはりね世界総氏子身の上安全、世界真の平和を皆さんも祈っておられるであろうけれども、その中身がいよいよ充実して行かねばいけないということ。そのためにはね、まず私の心が充実しなければいけないということ。まずは私の一家がね、なら私が助かる、私が充実するということは、その今村さんの発表のそれではないでしょうかね。
  もうそれに徹することですよ、もうそこにはね、神様を信じなければ徹しられないね。それでいて言うならばね、私が今朝御心眼で頂いたやせた富士山を見てね、日本一をめざしたら次は世界一をめざさなきゃならんでしょう。そのためにはこういうやせた富士山ではまだまだ、素晴らしい富士山とは言えない。
  もっと豊かに、もっと肥えていかねばならない。為にはなら、どういう信心をさせて頂くかと言うと、言うなら昨日の御理解をもってすると天地日月の心と言うのは、もう限りなく自分の信心内容としていかなければならないということ。
その手始めです、まずは自分の心を肥やそう、まず我情を取る、我欲を取るというようなことに精進させてもろうて、自分の心がいよいよ豊になる、そこにはいよいよ自分の信ずる力というものも五十信じておる者は百信じれるようになり、千も万も信じれるようになり、だから絶対信という事もたくさんあると思うですね。自分だけの事ならどんな場合であってもこれは神様を信じとるから、これが人の場合になるとやっぱり不安が伴う。だから自分だけのためならそこに絶対信があるわけです。だからその絶対信がです、世界中のどういう例えばベトナムですかね、戦争があっとりますよ、中国とのそういうもので、まあどうしたならこうしていつもかつもケンカばかりするじゃろうかと言う思いとね、おかげで世界が清まるための、本当の意味においてのめぐりのお取り払いを頂いておるんだと、お礼を申し上げる心もやはり育って来なければならないという事でございます。

  家の内に難儀な問題がおこった、ね。それを難儀とせずにめぐりのお取り払い頂いて有難いとお礼を言うならば、これは社会の上に起きてくる問題もやはりめぐりのお取り払い、同じでしょうがね。それで三面記事を「今日もね-ごつか大きなことが起こりゃよかがと言うごたる人間のね、何ち言うでしょうか野次馬根性とでも申しましょうか、そういう根性が取り払われてね、本当に今日も出来るならば平穏無事を祈る、けれどもそこに一度悲惨な事件が起こっておるとするならば、それはやはり社会学の言うならば難儀というもののめぐりのお取り払いが出来ておる、天地の親神様の眼からご覧になったら確かにそうであろう。言うならば、雨も風もね、流行り病気といったようなものでもね、これは神様が地球を清めて下さるために、そういう一つの悪いものの破壊の浄化作用があっておるんだと言われておる位ですから、やはりお礼を申し上げねばならん。そこまで心が高められたら、そういう事になってくるんです。限りがないんです。信心には。
  だから何が限りがないかと言うと、神様を信じて疑わないと言う心が、いよいよ限りなく、おそらく一生涯かかって、魂の世界に入ってでもその事に取り組んでいく事でしょうけども、その基礎となるものは、今村さんが発表された、私はそれだと、ね。悲しい事もある、苦しい事もあるけれども、今こそ心を肥やして頂いてるんだと思うたらお礼が言えるね。あ々したい、こうしたいという我情いっぱいに、思うごとならんと不平が出る、不足が出る。あっ、これは我情であったと気付かせてもらうところに、心が楽だ、平静だと言うような生き方が根本になるのじゃないでしょうかね。


                                                「どうぞ」